カウンセリングへの興味
初めて私がカウンセリングに興味を持ったのは、平成9年カウンセリングの一泊研修に参加した時のことです。当時、私は1歳の食物アレルギーのお子さんを担任していて、そのクレーマーのお母さんのことで悩んでおりました。
ロールプレイの場で、私はお母さんになったつもりで食べ物や掃除に気を使い、大変だと話しました。カウンセラーが「お母さん、よくがんばっていらっしゃいますね」と一言、話されたのです。
その一言で私は涙がこぼれました。
その時、初めて文句をいってくるお母さんの気持ちに気付けたのです。
後日、ねぎらいの言葉をかけると、お母さんとの関係だけでなくお子さんのかゆみまで改善されていったのです。
「”人の話を聴く”、”心を受けとめる”とはなんとすごいことだろう。」と感動し勉強しました。
そこで、ボランテイアで教育相談を始めました。
娘が不登校に
研修の場で不登校の子を支えようと聞いたり、カウンセラーを担当していた時、突然、
娘が腹痛を訴え中学校に行けなくなりました。
愕然としました。
自信がなくなりました。支えようの言葉が頭をよぎり、無理強いはやめました。
しかし、手立てはみつからず、カウンセラーを降り、相談者に変わり、相談室に通いました。
最初は、カウンセリングで支えてもらってやっと、歩けているという感じでした。
娘の気持ちを知ろうと日記をつけたり、夜の散歩や入浴を共にしました。
カウンセリングを受けている中で、自分が過保護でいたことに気づきました。
なるべく、先回りをせずに、待とうと思いました。
ところが、学校に行かない娘にお昼を用意してあげることは過保護なのか?悩みました。
カウンセラーに聞くと、「お子さんに聞いたらどうですか?」と言われました。
聞く? 直接聞く?
発想の転換でした。
娘は小さな声で「いいの?」と聞いてきました。
涙がこぼれました。
心がつながった瞬間でした。
それから、学校に行きだしてからも、私の方が不安で通いましたが、何があっても大丈夫!と自信をもち、カウンセリングを終了しました。
感謝の気持ちで、カウンセラーとして、3年後、復帰しました。
この体験談を「不登校の娘を抱きしめて」と題し、
アエルで教育関係者に発表する機会がありました。
早いうちに相談することが大切!
カウンセラーとして
復帰後、いじめをうけ不登校になった中学生のお子さんをもつ、お母さんを担当しました。
目の前に、当時の私のように自信をなくし、離婚も考えているようなお母さんが座っていました。
でも、私もとか、私の時は?とか、そういう言いたい気持ちを横に置いて話を聴きました。
今のお母さんの気持ちに寄り添い、つらさを受けとめ、頑張っていることを励まし、支えて聴き続けました。
少しずつ娘さんとの関係、夫との関係が良好になっていくと微笑むお母さんの姿がありました。
ついに、学校に行きだし、帰宅後、お母さんにうれしそうに報告する親子になっていました。
カウンセリングを終了できたとき、やっとカウンセラーになれた実感と、相手に変わる力があることを実感しました。
教えてもらいました。
この8年後、東京の九段会館での全国の相談者の大会で、このケースを発表することになりました。
発表許可をいだくために、連絡をとると、お子さんは教員になる大学に元気に通っていることと、発表することを快諾してくれました。
嬉しいご報告でした。
震災を経験して
2011,3,11
私は保育所の子どもらと一緒でした。
揺れが続く中、雪の光で過ごしました。元気づけるため、懐中電灯で影絵をみせたり、歌を歌ったり、安心を伝え、お迎えを待ちました。
我が家の家族は無事でしたが、帰宅した時は真っ暗でした。翌朝、我が家を見て震災のすごさに気づきました。が、もっと大変な津波の被害を知ったのは、テレビがついてからでした。
後日、お父さんが亡くなったお子さんもいました。
相談室の有志で、避難所にいる子どもらと、夜に週2回遊びました。
4月の2度目の大きな地震で、また、戻ってくる子もいました。
怖くて家に戻れず、親せきにも頼れず悩んでいるお母さん、津波で家も職場も失ったのに周囲を励ますお母さん方の話を聴きました。励まし、励まされ、最後の子が避難所を出るまで遊びに行きました。
この非常事態。人も家も失っても親も子も思いっ切り泣くこともできずにいたり、親子バラバラの生活が始まっていることに、これでいいのかわかりませんでした。
とにかく、みな必死でした。
カウンセリングの必要性を感じ、2011年5月家族相談士の資格を取るため勉強し始め、2012年2月試験に合格しました。
自分がうつ病に
相談士の試験勉強と、卒園アルバム製作と休むことなく、家でも打ち込んでいました。
無事、長年関わった子供たちを卒園させることができました。でも、涙が出ない自分。
転勤先では、新たな気持ちでと思ったはずなのに、自信もなくなり体もボロボロで涙が止まらなくなりました。誰かに話せれば 良かったのですが、ただ、がんばれない自分を責めていました。通院し、診断書を出してもらい休みました。
家にいても行かなきゃと焦る自分と行けない自分。
眠り方も献立の作り方も忘れました。
病院のカウンセリングを受けました。
辞めたいと騒ぐ私に、「風船を持っててください。怖いなら、棚に置いといて」と言われました。白黒、すぐにはっきりつけたがる自分に保留という方法を教えてもらいました。
1年半後、回復した頭とやはり、手を抜いた仕事ができない自分を想像し、前向きに仕事を辞める決心をつけました。
病を通して、頑張りすぎない、グレイという色もあってもよいことに気づきました。
回復したころ、カウンセラーが退職。交代したカウンセラーは
こんな人でいいの?と患者の私が心配なほど。患者は激減。
私もその病院を辞めました。
再出発!
休職中から児童館での育児相談を始めました。
ひとりのお母さんが「一日おきに不安で泣いているわ」と、ポロリと本音を出すと、次々、「私も」と涙ぐみながら語ってくれました。最初は、わたしだけ?と言い出せなかったようでしたが、共感しあい、みな、心から笑えたようでした。
東京や仙台での家族相談士の継続研修に何度も行き、さらに認定更新になりました。定期的な相談士仲間との情報交換も楽しいひと時です。
実践してきた来談者中心療法のカウンセリングも、大学の先生から基本から学び直し、実践し、報告し、さらにパワーアップし、4年目には、コーチングも学びました。
聴くだけの練習だけではなく、聴いてもらい、力ももらいます。
大学の先生からの学びは、2013年より現在も続いています。
わたしは、やはりカウンセリングの勉強、実践が好きなんだとつくづく感じました。
そして、家族関係をシステムと考えるやり方と話をしっかりと聴くやり方の両方を取り入れてより良いカウンセリングができると確信しました。
さらに2022年にメンタル心理カウンセラーを、2023年には上級心理カウンセラーを習得しさらに、多様な方のお悩みに対応できるスキルを学び直しました。
2016年より区役所での乳幼児健診や乳幼児教室で週に2回働き始め、また市政だよりに載っている育児サロンもやっておりました。
不安を抱えたご家庭を保健師も心理士もみな、一生懸命フォローしようと頑張っています。また、サロンでは地域の民生委員さん方と一緒に会場あふれるお子さん方を相手しています。
私も、その中で支えてあげたいと共に取り組んでおりました。
ただ、人数も多く、ひとりひとりに関わる時間はやはり、限界があり、継続して支えられないと感じました。
そんな中、娘も母になったと喜びもつかの間。
ちっとも寝てくれない息子の世話に自分が疲れ切り、ダウン。
旦那さんや保育所や周囲の家族の協力、さらに良い医師とカウンセラーにめぐり会い、頑張りすぎない自分を取り戻そうとしています。とてもひとりでは、育てきれない元気すぎる孫ですが、みんなの愛情ですくすく育っています。
私も孫から癒しと体力をつけてもらっています。
カウンセリングルームの開設!
今までの集大成!長年の夢を実現しました。
2階の我が家で「仙台カウンセリングルームぞうさん」を2018年1月2日に開設しました。
さらに、2022年4月にリフォームし感染対策になるカウンセリングルームを作りました。
今の子育ては情報がありすぎる反面、目の前の子どもの発達が心配になったり、自信がもてなかったり、話せる相手、わかってくれる相手がいなくて孤独なのではないでしょうか?
娘からも初めて、お母さんがやろうとしている育児相談の存在がありがたいとまた、病院のカウンセラーはお母さんのような人だよと背中を押してくれました。
親子して病になったことも悩んできたことも保育所以外の違う世界を見れたことも、
すべてが仙台カウンセリングルームぞうさんにつながっていたのだと今は、感謝の思いです。
カウンセラーとして、相談にみえた方が解決されて立ち上がっていく姿に、深い感動を覚えます。
ぞうさんのような大きな耳と優しいまなざしでお話を聴きます。
次は、あなたのおこしをお待ちしております。
家族相談士・上級心理カウンセラー 村井優子